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「ついにカントクが“監督”デビュー」山本晋也カントクの桃色青春伝

前回書いたように、予定していたベテランの監督が突然いなくなっちゃったんで、チーフ助監督だったオレが急遽監督に抜擢された。1965年、25歳のときだった。これは日本映画史上最年少監督だったらしい。そりゃそうだよな、当時の映画監督といえば、撮影所で何十年と修業して、やっとなれたもんだ。だから後に、ゴールデン街の酒場で隣り合わせた東映の50過ぎた助監督の男に泣かれたよ。「オマエは俺たちの苦労をどう思うんだ」って。

ベッドシーンの基本は「あ・い・う・え・お」

他にも新人の女優がベッドシーンのアフレコを前にして困ってると、ベテランの照明部さんなんかがソッとアドバイスする。「俺が聞いたところによると、〈あ・い・う・え・お〉の声出しときゃ、だいたい大丈夫みたいだゾ」なんてね。脇で聞いてて「上手いコト言うなあ」と思ったね。確かに〈あ〉は「ああッ」と激情して、〈い〉は「イイッ!」と叫ぶ。〈う〉は「ううッ」と唸る。おい、でも、ちょっと待てよ、〈お〉はねえだろ、あれは洋ピンだ。「OH!ダイナマイト」だろ。

だからアフレコってのは実は第二の映画作りなんだ。現場で言ってない台詞を乗せることだってできる。これは録音場で教わったことだね。「監督、ただアンアン言ってるだけじゃ面白くないよ。女にナンか粋な台詞でも言わせましょう。『一緒に死んで』とか『もう離れられないワ』とか」なんてね。そういう意味で、オレはスタッフに恵まれましたよ。

だからベッドシーンは女優男優の相性で撮ってしまって、台詞はあとから考える。ストーリーなんざ変えたって、別にいいんだから。この発想が、後のオレのヒット作『未亡人下宿』や『痴漢』シリーズで生きた。久保新二や、たこ八郎みたいな芸達者には、現場ではアドリブ、アドリブで好きにしゃべり、動き回ってもらう。辻褄はアフレコで合わせりゃいい。この方法論がなかったら、あのドタバタコメディは誕生しなかっただろうね。

さて、そうやってオレの監督第1 作は完成した。タイトルは『狂い咲き』。しかし、これが映倫で審査拒否に遭った。「この描写は、けしからん」「このシーンをカットしろ」じゃない。「こんな映画は映倫が審査するに値しない」と言うんだ。こんなことは前代未聞だ。

物語は凡庸ですよ。オレの台本(ホン)じゃない、前任の監督のシナリオだからね。金持ちの奥さんがいて、それが出入りの若い男とデキちまうという『チャタレイ夫人の恋人』を模したようなお話ですよ。会社はオレに言ったね。「お前さんを監督にするに当たって、ウチは3本まで面倒みよう。そのうち1本でもヒットすれば正式な監督として認めよう」と。

それもあったんだが、オレとしちゃあ、会社の金で映画作らせてもらえる。ならば客に「これは興奮する」「こいつはスケベだ!」と唸らせる作品を作りたかった。
当時の価値観では家庭というのはひとつの聖域であって、一般の夫婦は「咥えろ、舐めろ」なんてセックスはしないわけですよ。しかし富豪の夫人だって人間だし、女だ。スケベな欲望は当然持ってる。その感情は夫じゃない、若い男の前では獣のように爆発するだろうと。だからソコを徹底的に描いてやったんだな。

映倫のお歴々というのは元五社の脚本家やプロデューサーなんかで、戦前からの映画人ですよ。だから、ピンク映画なんてものをハナっからバカにしてる。裸が映ってるだけの低俗なもんだろうと。ところが、そさがこでオレは人間の業や性まで描いてしまった。思うに、それが映倫の逆鱗に触れたんだな。

表現の自由なんてことは、これっぽっちも考えやしなかったけど、こっちも若いから「審査したくねえなら、しなくてけっこう」と試写室を飛び出した。ところがあとから会社の人間が「アレ、審査通ったよ」と言う。どうやらプロデューサーだか会社の偉いさんだかが、料亭に一席もうけて映倫の先生方を飲ましたそうだよ。いい加減な映画倫理もあったもんだよね。

(続きは9月25日発売の増刊大衆へ!)


山本晋也 やまもと・しんや
1939年6月16日生まれ、東京都出身。250本以上ものピンク映画を監督し、ヒットメーカーとなる。所ジョージ、タモリらが出演した伝説のカルト映画『下落合焼とりムービー』など一般作品の監督や役者としてドラマに出演したり、落語家として舞台に立ったり、深夜番組『トゥナイト』のレポーター、ワイドショーのコメンテーターとしてマルチな才能で活躍。

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